昭和52年04月24日 朝の御理解
御理解 第79節
「商売をするなら、買い場売り場と言うて元を仕込むところと売り先とを大事にせよ。人が口銭を10銭かけるものなら8銭掛けよ、目先は2銭損のようでもやすうすれば数が売れるから、やはりそのほうが得じゃ。身体はちびるものでないから働くが良い。」
なかなか目先目先の事を考えますから、結局利潤を追うということになって、そして結果においては大した事はない。ただ自分が精進したとか努力したとかと言う様な事は、たいした事ではない。どうでも願い以上思い以上の、おかげが展開して来る様なおかげを頂く為には、どうでもその我情がとり我欲を捨てて、言うならば自分の思いを捨てて。所謂ここではお客様本位にというか、という自分と言うものを中心に考える生き方をやめて、そして仕入れ先とか、又は売り先とかの事だけを考えていけば。と言う事になる。
ですからこりゃ私共商売だけの事じゃありません、全ての事にこの事が言えると思うです。今日は末永先生があちらに参ります壮行会が行われます。それで何をどの様におかげを頂いていったら。問題は末永先生を中心として、そして南米の地に合楽という信心の種が蒔かれる事なのですから。どういう生き方を芯にして行ったらよいだろうかと、いうな事を思わして頂いとりましたら。自らを実失てるという事を頂いた。自らをね、まず自分自身を納めて行くというのです。
もう10日も20日もなりましょうか、もうあちらに参ります事が決定してからこの方というものは、まず毎日のことを祈らせて頂くのです。ある御祈念の時にその事を頂いておりましたら。しょうしょう大きな硯に、筆に水を、墨を含まして、何か大きな字を書こうと思っとるらしいんです。それでこうかえってその、何ていう字を書くだろうかと思ったら、その大坪の大と言う字ね、だい(大)の字です。大の字を書こうと思っているらしいんです。
それで先ずその横にこういっちょ書かんといかんですね、大の字を書こうと思よるとにその、一の字をずうっと、長く長く引っ張っておるところを頂くんです。例えば横なら横に、これをそんならそれに対する、なら又こちらのもとに例えばもとに従ってこうね、それでいて大の字、横縦やはり吊り合わなければならん。もうこの横に書くということは、その矢張りこれはまあ誰でもおんなじでしょうけれども、商売を始めるとか、例えばならお道の教師を志せば、当然布教にも出させて頂かなければならん。
それがいよいよ決定したら、もう本当にあれもおかげを頂きたい、こうもおかげを頂きたい。あぁもしたい、こうもしたと言う様な思いを致します事は当然の事であります。けれどもその、自分の思い通りにということは、それは実をいうたら小さい事です。例えばその店が立って行けば良いと、始めからそんなにその繁盛致しましても、そんなにまた売れたまた売れたと言う様な訳には行きません。
なら教会をもってもです、それこそ信心が出来ておると致しましても、一偏に信者がたくさん集まって来るとか助かると言う事はありません。そういう場合に私共はどういうあり方でなからんか、又これは私しの流儀の芯をなすということでもあるのですけれども。例えば家内を見ても子供たちを見ても、信者の一人ひとりを見てもです、素晴らしい所もありゃ素晴らしくない所もある。その一切がです自分を律していく、それを手立てとし言うならば律して行く材料にして行くというのが、これが私しの流儀なんです。
信者の中に不届きな人があったとするならば、それもなら私しの心の中にあるとして詫びていくという外にない、子供たちの上に目にあまるような事を見聞きする場合は、私しが改まって行く以外にはない。家内に行き届かないものを感じたならば、自分自身が神様へ向けての実意のなさ、というか行き届かないということに重点をおいて、自分が行き届かせて頂こう、自分がそれを見て改まらせて頂こう。
もしそこに不埒な人達が信者の中にもしあったとするならば、その人を責めるのじゃない、日頃はあなた方は何を信心しておるか、何をどうあっておるかというのではなくて、私しの不行き届きとして、お詫びをしていく以外にゃない、それこそ段々それが偉大になればなるほどに、世間の悪ですら、世間のいうならば、状態様子を見てでも、私しの祈りが足りなかったとして、この様な生き方。
郵便ポストの赤いのも、電信柱が高いのもみんな私が悪いのだと。まぁ30年前よくこんな御理解を頂いておりました。あれが悪いからじゃない、私し自身が悪いからなんだと。そこに自分と言う者を納めていくということはそういう事なんです。だから自分が納めていくと、例えば世界真の平和を祈るとか願うとかいうても、勿論願いもします、祈りもしますけれども、先ず自分自身の心の中に、平和が訪れてこなければ、世界の平和を祈るということは、それはいうならおかしな事。
ある人がある政治家を評して、いくらどんな偉そうなこと言うたって、自分所の家族やらを納め切らん政治家が、国の政りごとに口を出すなんて、とんでもない話だと言った様な事を聞いたことが、まさしくそうだと思うです。自分の家庭すら納めきらずしておいて、国家の大事をうんぬんすることは可笑しな事だという頂き方が、自らを律していくという事なんです。
それをなら、また今日のこれは、勿論商売人に下さった御理解でしょうけれども、それをお道の信心で、合楽のふうにこう解きますとです。自分というものが中心ではない、お客さんが中心なんです、神様が、神様本位である、お客様本位であるということが、商売のいうならば大繁盛する、秘結であるとするなら、私共はいつの場合であっても、人ではない、物ではない、事柄ではない、どんな事柄をもっても、それこそどんな些細な事にでも、御神意があるといわれるのですから。
その御神意を悟らせて頂くということは、なら子供があぁま悪いかいうな場合であってもです、子供が芯ではなくて、子供の御粗末は自分の御粗末として、自分が改まったり詫びたりしていくということが、自分自身を納めていくということになる。そこにはね、神様のいうならば御信用が受けられる。
先日から麻生さんが、末永先生に贈りたいと思います、なんか寄せ書きをして贈りたい。それで第1ページの所に、親先生なにか書いてくれと言うて持って見えました。だから私しは「神徳を得よ、人徳を受けよ」といううふうに書かせて頂いた。大体神徳は受けるもの、人徳は得るもの、それを反対に書いたんです。「神徳を得よ、人徳を受けよ」だから信心はぎりぎりの所どういうことか、御神徳を受けるためにあるのです。
ならその御神徳を得る為にはならどういう事をしなければならんか。商売繁盛するおかげを頂く為には、お客さんに喜んでもらうという商売でなからなければ繁盛致しません。神様に喜んで頂く、神様に信用を受けるという生き方。だから神徳を得るために精進努力をする、精進努力をするということはどう言う事かというと、自分の心を一生懸命に修めるということにある。
自分の心を修めるためには、まず自分を知らなければならない、いよいよ本気で改まる事にも、磨く事にも努めなければならない。どう言う様な事柄の中にでも、御神意ありとわからしてもろうて、御神意を辿らせて頂こうという生き方、それを私は今日は自らを修めるということだ。そういう生き方のうえに、言うならばあの氏子はもう大丈夫という、神様の御信用が着いてくる。生むことが出来る、矢張りそこには生むためには、信用をうる、得るということですよ。
信用を頂くためには、自分自身が信用の出来る自分にならなければならない。その努力が必要なんだと。お客様獲得しよう、沢山のお客様に来てもらおうという、いうなら宣伝広告ばかりしてもです、成程宣伝に乗って来る人もあるかも知れませんけれども、精進があんまり御粗末であったり、または他所よりも高かったりしたら一辺か二辺きりで、後は長くは来てくれません。それは要領よくいうならば、騙すような事になりましても、いつかはそれは剥げるんです。
それよりも神様に御信用を頂くという生き方を見つけて、先ず自分御心が喜びでいっぱいあふれくる。そのあふれて来るその喜びが人にも伝えられていくというおかげを頂く、それが私しは、自らを修めるという生き方。いうならばあぁもしかい、こうもしたいというその我情を抑え、又はその我情我欲を改まらせて頂いて、神様がおかげを下さる、神様の働きを頂く、それには自分の我情や我欲があっては、神様の働きの場を狭ばめてしまう。人知人力では大した事はない。
いよいよ無限の神力、限りないいうならばそれこそ、夢にも思わなかった様なおかげの展開ということは、神様のそいう働きの場というものを、自由にお働き頂ける様な心の状態を頂く事だと。先日からもあちらへ持って行く為、末永先生がカセットをあちらへ持って行きたいと、それもあちらは、こちらのとは全然違いますそうですから調べてみたところが、あちらですぐ使えるというのがあるというので、それを買うというから、なら買わせて頂いたら良いというておりました。
そしたらその事を高橋さんに相談したらもう、一言にして、はぁそげなことはいかんととか言われた。だから私は、末永さん、ほんな事はそうじゃんねって、そりゃ親先生のお話をあちらでも皆さんにも聞いて貰うと。というごたるけれども、本当はあんたの信心が、しかも生なあんたのその声でね、あんたの信心を語ったがいちっ番いいよ。いくら私の話がどういう、例えば有難かってもどうあってもです、それはもうあちらでは参考にしかならないんだ。
あぁたの信心をいうならば生で話していくという、その為には自分自身が、今日の御理解で言うと、修めていく所から、生まれて来る信心を語るが一番良いのだ。と申しましたから恐らくもうやめたんじゃろうとこう思います、そして末永さん私の生き方はね、もうそこに本当に神様が必要と感じなさったら必ず与えられる言う事が、合楽の流儀であんたが知り過ぎる位に知っておる事じゃろうがというて、申しました事です。
あっちにはあれも無いけん、これももってこうあれも買うていこう、まぁ心をチジに砕く事ですけども、もう本当に合楽の信心は、簡単明瞭である。どの様な場合であっても、しおりをみるのではない、家内を見るのではない、子供をみるのではない。いやその見てそれを自分の心の中に持ってくる以外にない。本当にあれが必要だと思うたら、神様が本当に必要と感じなさったら、必ず下さるという確信を頂く、そういう信心を頂くということがなんだ。
だからもうこんなに楽な事はない。こりゃ私共修行中の時分によう考えた、本当に一生懸命にいうならば、もう本当に一生懸命の信心修行をさせて頂きたい。まぁいうならば一にも神様、二にも神様、三にも神様という時代なんです。商売するのに出来てしまったのが。ですから梅林寺さんあたりのこう、修行僧の方達が墨の衣にわらじ履きで、そしてあの修行して廻っとられるのを見ると、それが非常に羨ましかった。あの位に専念できたら素晴らしい、家もなからなければ家内もない、勿論子供もいない、ただ生活の全てを仏様にゆだね任せて、ただ仏道一途に精進しとられる姿を本当にうらやましかった。
はぁあのような修行したなら素晴らしい、山にどん籠もって一生懸命、いうならばその信心修行でもさして頂いたならば、どんな素晴らしい信心がでけるだろうかと思うた時代があったけれども、金光教のご信心は、そうではないということが解った、金光教の信心は家を持ち、家内をもち、子供をもち、お仕事をもち。そういういうなら生活の全てがかかっておるその重みを感じながら、その中に、たまたま今日は家業の行とおっしゃったり、また表行より心行をせよといわれる。
その心行やら家業の行に取り組みながら、本当の信心を求めていくというのが、重みを感ずる例えば、南米辺りまでなら参ります。自分が一人行っとって、地盤だけつくって、もう安心だから大丈夫だから、家内子供を呼ぼうかと言った様な考え方は、良さそうであって大変それは甘い考え方である。それこそ家内子供、生活の全てをです神様にゆだね任せるという確信がなからなければ、行けることではない。
もう大冒険である、けどもその大冒険がです。それが平気で出来ると言う所に、神様を信ずる、また神様を信ずるという事は、神の働きを信ずるという事なんです。神様が見殺しにはしなさらんという、いうならば信心なんです。それにそんならあぁもしたい、こうもと、そういう思いがあったんでは、神様がそのゆだね任せられた所から、神様の働きが始まる、その働きの邪魔する様な事になる。もう本当に神様の働きをいうならば愈々そこに現して、そして愈々信ずる力が出来て来る、自分のものになる信心。
いうならば我情を捨て自分の思いを捨てて、我欲を捨てて、自分が立ち行く事だけではなくてです。神様をいつも芯にしたところのいうなら、神様本位の信心をするということはその内容としてです。どうぞ神様が必要なものは必要に応じてくださるなと。ためには自分が自身が助かって行く律していく自分の心を自分で、修めていく事の出来ない私しは、それを人に教えたり、人を修める道を説いたりしたところでおかげになるはずはない。まずは自分自身が助からなければというのが、合楽の信心なのです。
だからこれを引っ提げこれを持って行く以外ないのだという事です。今日は御理解75節、これは商売人に対する御教えですけども、この真に流れておる教祖の、ご精神というのは、自分が儲かりさえすればよいというのではなくて、仕入れ先にも喜んでもらわんならん、お客さんにも喜んでもらわんならん。そこには自分と言う者をむなしゅうしていかなければいけないと、いうことがこの御理解の芯であります。
最後の所にからだはチビルものではないから、働くがよいと教えられておる事は、自分の身をいかに削ったところで、磨いたところでです、自分というものはなくなるという事は決してない。増々時分というものを、それこそ千切れる様に、自分の身を削り心を削りさせて頂くというところから、増々神様の御信用は大きくなっていくのであります。そこには自分を抜きにした。
昨日もお月次祭に先生が前講で申しましたように、いうならば死んだ気でである、今日の例えば壮行会は、自分の告別式だと言う様な頂き方をして、自分というものをむなしゅうして行くということ以外にゃない。いや合楽で10年間稽古をさせて頂いて、ここだけが解ったという信心でなからなければならない。それが私しはこの79節にはよく伺えると思うのです。自分がそろばんをもって。自分ではじき出していくという次元じゃたいしたことじゃない。
5と5とたしたところで10にしかならんのだ、そこにはねそれこそ、5、5、25と言った様なおかげが現れてくる事のためには、それこそ夢にも思わなかった様なおかげの展開になるためには、神様と一体になる生き方をです。神様の働きの場をいよいよ、そこに豊かに大きくしていくことのために、先ず自分自身が豊かに大きく、我情を取り我欲を取り、もうほんっとに問題にならない事を問題にするようでは。もう合楽教会ではいっつもこれが言われます。
信者の中にいろんな問題がある、それを何時も日頃教えを頂いているものが聞いておると、そりゃぁあんた合楽では問題にならないこじゃないのと、一笑にふして行く様な事を自分だけ問題にしておる。それは世間では問題になるかも知れん、けれど合楽ではひっとつも問題じゃない。だから問題が問題を生んでいくなんて事は、合楽でははやらんのだ。問題はもうその場で、自分を律していくための問題とするならばその場で問題は消えるのだ。
そういう生き方を身に着けて行くという事が、言うならば商売での繁盛の秘訣である。又は自分自身が御神徳を受けていく、いうならば秘訣である。今日は自らを律していくという事を、自分というものをむなしゅうして行くという事。子供やら、なら家内の上に口上のひとつも言いたい、文句のひとつも言うたり、説教のひとつもしたいような時であっても、それこそ黙って修めていくということは。
自分自身のここ黙っとるという事だけじゃない。自分自身の心の中にです、それをいうならば改まりの主とし、磨いていく事の材料としなければならない、そこからですいよいよお客さんの御信用も着いていくだろう、神様の御信用も着いて行くだろう。そこに商売発展の道も開けてくる。私したちの上にも、夢にも思わなかったおかげのてんかいともなってくるわけであります。
どうぞ。